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【我が心の武蔵関】  きみさんち 志寒

2019年04月05日 | きみさんち

きみさんちは練馬区の武蔵関にあります。私がこの武蔵関にご縁をいただいてから、10年以上の月日が流れました。
その間に街並みも変わりました。古くからのお店が商売をたたみ、その後に新しい店舗ができ、一軒家がマンションになり、目を楽しませてくれた石神井川沿いの桜の古木も、何本か寿命を迎えました。もちろん、きみさんちの入居者も職員も幾人かが去り、その分だけ新しく出会いがありました。
なじみの人々とのかかわりや、ボロ市の賑わいなど町のにおいは変わりませんが、いざ振り返ってみると、その変化がさびしいような切ないような、それでいて、確かに未来へ歩み続けている息遣いを感じて、心が沸き立つような気分になります。
足しげく通っていた店がふっと消え、それにいささかの感傷を覚えながらも、それでも今度は何の店が建つのだろうかとわくわくする、そんな気持ちに似ているでしょうか。そして、新しい店が好みの商売をしていると、それをすっかり新しく町の光景として受け入れてしまって、あれ?ここに前は何があったんだっけ?と、思い出すのも難しくなってしまう、そんなげんきんな面も、人の心理は持ち合わせているように思います。
一方で、一旦なじんだ心の町並みはなかなか消えないもので“あれならあそこの店に売っていたはずだ”とか、“あのバラのお宅の角を曲がると近いはずだ”などと確信していて、ふと、いや、あそこはもう無くなったんだと気がつくこともあります。そして先ほどの自分の確信具合を思い出して、不思議やらおかしいやら。ああ、認知症状態にある人はこうして道に迷うこともあるのかもしれないなと、思いもします。
変わるものも変わらぬものも包み込んで、この武蔵関は未来へと時を重ね続けていきます。そして私自身も、変わらぬと思いたがっていても歳を重ねていくわけで、良くも悪くも変わっていくのでしょう。
そしていつか、10+α 年後、この武蔵関を私が去り、それからまた時が流れたとき、この武蔵関の風景、きみさんちのたたずまい、そして同じときを過ごしてきた入居者や職員、地域の人々の顔を、どんな頻度で、どんなふうに思い返すのでしょうか。心の地図帳、アルバムにどんな町並みが、人々が残っているのでしょうか。
寒さもひときわ厳しい時季ですが、よく観ると桜の芽は気持ちばかり大きくなっているようです。桜も数本、欠けてしまいましたが、今年もまた、桜の花とそれに目を輝かせている入居者さんの顔を、心に焼き付けたいと思います。

09:02 | Posted by kimisanchi