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【母】 お寺のよこ 安藤

2011年06月05日 | お寺のよこ

私の人生、全てのはじまりはいつも母だった。
母の名は正子(まさこ)といい、今年の7月で還暦を迎える。今ではもうはっきり覚えていないが、いつの頃からか、私は母を「お母さん」ではなく親しみを込めて「正子さん」と呼んでいる。母は私が介護の道に進むきっかけを作ってくれた人でもある。
9人兄弟の8番目として生まれた母は、あまりにも純粋で、曲がったことが大嫌い。そしてテキパキと家事をこなし、恐ろしいほどに良く動く人だ。専業主婦の母は、その身に甘んじたくはなかったのだろう。
私が小学生だった頃「ただいま」と家に帰ると、母はいつも家にいてくれた。一緒にお茶を飲み、その日にあったことを互いに話し合った。その後、母は、私に留守番を任せ、家の近くにある家庭菜園に毎日のように出かけた。ナス、キャベツ、じゃがいも、大根・・・・ありとあらゆる野菜を母は毎年、心を込めて作っていた。その姿は今現在も何一つ変わらない。
順風満帆に行って欲しいと願えど、人生は中々そうもいかない。中・高校生の反抗期には「どうせ分かってくれない」と話す前から決めつけ、小学生の頃の素直さはどこへやら。
母との会話はほとんどなくなった。たまに会話をしても直ぐぶつかってしまう。そんな時、決まって母は「あなたを相手にしているより、野菜を相手にしている方が素直だし、よっぽどいい」と、そんなセリフを言って畑に出かけていった。母が畑に出掛けると、1人部屋に閉じこもり、所詮自分は野菜以下のダメ人間だと落ち込んだりした。些細な事で落ち込んでばかりいると、学校でも自分のダメな部分ばかり目についた。どうしても友人と比べてしまう。何をやっても劣等感ばかり募り、その原因をいつしか親のせいにする様になった。親が厳しすぎるんだと。
確かに母は厳しかった。時々、納得がいかない時があった。
友人の親が、ますます羨ましく思えた。でも、非難してばかりでも仕方ないので、ある日、母を私の理想の母にしようと決心した。
しかし、結果は散々で、逆に私が疲れてしまった。
その時初めて「自分は変えられるけれど、他人は変えられない」という、世に言われている格言を知った。ならば自分が変わるしかないのだと、今度は母の観察を始めた。そして、母の観察を始めて、直ぐ意外な発見があった。
それまで、姉達とつるんでぶざけてばかりで気付けないでいたが、母は来る日も来る日も、自宅で祖父の介護をしていた。そして、祖父が亡くなってから数年後、今度は祖母の介護をしていた。母が祖母の介護をし始めた頃、またようやく、母と素直に向き合える様になった。ただそっと手伝える様になった。
そんな私の姿を見て母は「自分の時間が持てないとついつい、イライラしちゃってゴメンネ」と言った。そこに辿り着くまで、私も苦しかった。そして母もまた苦しかったのだ。
祖母が亡くなって今年で9年経った。母は今、近所との繋がりをとても大事にしている。
高齢者の1人暮らしのお宅に、お茶飲みに出掛けたり、野菜が沢山とれた時に「どうぞ」とおすそ分けをしている。それは、ただ単に高齢者を思いやるという事だけではなく、不安や心配や孤独感がいとも簡単に人間を死に追いやってしまったり、生きる希望をも失わせてしまうものだから、人との繋がりは大事にしなくちゃダメなんだよという母の教えでもある。
私は、いつの頃からか、心を月に例えるようになった。満月の日もあるけれど、たいてい月は欠けている。昔は、その欠けていた部分がカッコ悪くてとても嫌だった。
でも、だからこそ生きていけるのではないかと最近思える様になった。欠けている部分を満たそうとするから人は生きていけるのだと思った。
長くなりました。この度、一身上の都合により4年間お世話になったお寺のよこを退職させて頂くことになりました。
皆様のお陰で、とても濃い4年間を過ごす事が出来ました。
世間一般では、介護はキツいし大変な仕事だと、もしかしたらそう思われているのかも知れません。何を隠そう、私がそう思い込んでいました。でも、ある作家が「王様でさえ他の仕事を夢見るものだ」という言葉を残しています。この言葉を知ってから少しずつ介護や仕事に対する「向き合い方」や「考え方」が変わりました。未熟者ですので、失敗も多々ございますが、お寺のよこで学んだことや思い出を大事に、また田舎に帰ってもがんばって行きたいと思います。皆様、本当にありがとうございました。

10:18 | Posted by admin