紫陽花が美しい季節となりました。お寺のよこの近くにも、「プチ紫陽花の名所」がありまして、毎年この季節になるとその紫陽花を見るのが私の密かな楽しみとなっています。
3年前にご逝去されたIさんは写真が趣味で、その紫陽花を良く写真に撮っておられました。写真を撮る際には、お一人で出掛けられる時、他の入居者さんと出掛けられる時と様々でしたが、紫陽花の写真を撮り終えた後は紫陽花の近くにある石の欄干に腰掛けてのんびりと過ごしておられ、私はその時間が大好きでした。
ふと振り返ってみると、最近そういった趣味嗜好にちなんだ外出を入居者さんとしていないことに気付きました。勿論それには色々と理由はあるのです。年数が経過していくにつれ入居者さんの体力が低下されていること、以前は関心を持たれていたことに興味が向かなくなってしまったこと、ここ最近では職員が不足していたこと(これは我々の問題ですね。突き詰めて考えれば国の社会福祉施策の問題等にも突き当たりますが、その事はここでは触れません)等etc・・・。
「あ~。参ったなあ」入居者さんとともに時間を過ごしていると、そう思う瞬間が一日に何度か訪れます。
それは、職員が手薄な時間帯に外出がしたいという入居者さんからの要望であったり、転倒の恐れのある入居者さんが一時に複数名動き出したり(その時の職員は屋内に1名だったりします)、入居者さん同士で怒鳴りあったり、はたまた職員から話し掛けても一切反応しなかったり等etc・・・。その時に先述したような吐息が漏れそうになる時があります。
ただ、考えようによってはそういった行動も入居者さんが持っておられる素敵な力の一つなんですよね。外出したいという強い思い、その思いを表明する力、立ち上がり、動き出す力、相手に対し自分の思いをぶつける力、反応しないという対応を選択することにより自分を守ろうとする力(ただし、その時は一杯一杯で「素敵だな」と感じられる時の方が少ないのですが)。それは入居者さんと年を重ねていくにつれ、より具体的に分かってきたことかもしれません。以前あんなに自由に動き回られ、自分の欲求をぶつけてこられた方々が少しずつ変化されていく。それは明確な意思表示が示されなかったり、行動範囲が狭くなったりといった変化だったりもします。あの時は「あ~。参ったなあ」と思っていた事が如何に尊いものであったのかと気付く瞬間。でも、それは失われていく変化ばかりではないんですよね。
以前は拒否的な態度が多かったのに柔和な表情が多く見られるようになった方、以前は表情が乏しかったのにひょうきんな面を多数見せてくれる方、変化しているようで本質は何ら変化されていない方。その方により変化の差異はあるかもしれませんが、年数を経て新たに獲得されたものもあるかと思います。
Iさんとともに紫陽花の写真を撮った入居者の方々も、以前と同じように紫陽花を楽しむことは出来ないかもしれません。しかし、今だからこそ味わえる紫陽花との時間の共有もあるのかもとふと思いました。入居者さんが過去持っておられた力、今新たに獲得された力、失ったかのように見えて実はずっと持ち続けられている力、それぞれの力をともに味わい共有していくことが出来れば素敵ですよね。その為には、私も十分に力をつける必要がありますが・・・。