よお。親分!」Kさんからこのように声を掛けられたのは何ヶ月前のことでしょうか。Kさんがご入居されてもう直ぐ5年になりますが、私のことを親分と言って声を掛けてくれたことが3回だけですがありました。シチュエーションは様々だったので、親分という呼称をその時に選び発した意図は分かりませんが、他の職員に尋ねてみても親分という呼び方をされた人が居なかったので、Kさんからすれば私は「お寺のよこ」の親分であると思っているのでしょうか。
基本的に親分気質の人間ではないので、少し面映いような嬉しいような不思議な気持ちになりました。
「この馬鹿野郎!あっち行け」お寺のよこには例年年が明けて早々に、法人内の有志が集まって獅子舞を舞いに来てくれます。私がSさんの傍に行って話しかけていた際に、獅子舞が我々の傍にやって来たのですが、Sさんは私を獅子舞からかばいながら先述した言葉を言いながら獅子舞を叩こうとしていたのです。どうやらSさんにとって私は庇護すべき対象のように思えたようです。来年には不惑の年を迎えるのですが、入居者さんにかばってもらえたというのは少し面映いような嬉しいような不思議な気持ちになりました。
・・・でも。親分とは随分距離がありますねえ。私という人間が入居者さんによって異なった存在であること。それは同じ入居者さんでもその時々で違う場合もあるのでしょう。それはとても興味深いですし、自分が色んな存在に変化しているようで面白く感じています。
Eさんは昨年の12月に他の高齢者施設にご入居される為退居されました。昨年7月のご入居であった為、5ヶ月間という短いお付き合いでしたが、濃密な時間を過ごさせて頂きました。非常に鋭い意見を仰られる方で、私が「お寺のよこ」の管理者であるということから、「お寺のよこ」の改善すべき点等も率直にご意見頂くことも多々ありました。それは叱咤8割、激励2割という割合だったでしょうか。
そんなEさんから頂いた言葉に次のようなものがありました。
「ここに入居している人達は自分の思っていることをスムーズに言葉に出すことが難しいところがあるでしょう。そんな人達の言葉に出せない部分を引き出してあげるのが貴方達の仕事じゃないの」
我々の仕事の本質をズバリと当事者側から突かれたら「仰る通りです」と頭を垂れて自分達の足元を見つめ直すしかありませんでした。
Eさんがご退居される数日前に、お部屋で私と会話をする機会がありました。Eさんはここを出て行くとなると少し感傷的になったようで、「この後死ぬのであれば、知っている人がいるここの方がいいよ。あんたがいるしね」と仰いました。
私は「本当ですか。本当だったら嬉しいなあ」と言うと、Eさんは「嘘だよ」と。
それは本当に嘘だったのか、少しは本気の部分もあったのか、照れ隠しだったのか今となっては知る由もありませんが、Eさんにとってその会話をした時の私という存在は、お寺のよこの管理者としてだったのでしょうか、それとも光岡賢一という一人の人間の存在としてだったのでしょうか。
そして例え嘘であったとしてもEさんが「この後死ぬのであば・・.」という言葉を残していってくれた意味、ともに過ごした時間を我々は深く噛み締めるべきであろうと感じています。