ある日の夕方のことです。
とあるご入居者さんが少しだけ開いたお部屋のドアからこちらを伺っていました。
いつも陽気なそのご入居者さんですが、何か言いたげな物憂げなお顔をされています。
私はノックをし、お部屋にお伺いしました。
天気のことなど、他愛も無い会話をするのですが、特に何かを仰るわけでもなく、ぼんやりとした表情で窓から見える夕空を見ておられます。
いったんお暇をし、他のスタッフに聞いてみると、そういえば、お部屋の仏壇のおりんを鳴らしていたとのこと。お亡くなりになったご家族のことを思い出されているのかもしれません。
私は人には自分だけの悲しみを抱え、それを慈しむ権利があると思っています。
悲しみの無い笑顔だけの暮らしなど、そう生きようとするのも、ましてや他人にそう生きるよう強いられるのも苦しいでしょうし、私のような若輩者がたやすく百寿にも手が届く方の、積み重ねた人生の悲しみに対して、共感したり、慰めようとしたりするのは、あまりにおこがましいことと思っています。
ですが、そのとき、夕空から仏壇に目をやったときの、さびしげな光景が目に浮かびました。
そして、もう一度、お部屋にお邪魔しました。「そういや、花屋さん、安かったよ」
結果、夕暮れの関町に仏壇のお花を買いに行くこととなりました。
さて、玄関先に出たとたん、ご近所のリサイクルショップと高齢者の集いの場のエプロン関町の方が。「焼きたての手作りのケーキですけど」と。ありがたくケーキを受け取り、商店街に向います。すると、いつもお世話になっているお肉屋さんの高尾さんが。ご入居者さんが「おとうさん!元気にしてた?」とご店主に大声で話しかけると「え!?もうすぐ100歳になるの?すごいねぇ、俺も続かなくちゃ」と返されます。しばらく進んで、お好きな喫茶店の花冠さんを通ると、店主と手を振り合っておられます。
しばらくして、ご入居者さん。
「この町はいい人ばっかりだ」「花は赤いのが入っているのにしよう」と笑顔になっています。
深い根源的な悲しみは、なじみの人々との、生活の中のきずなで癒えていくものなのだなと感じました。
なじみの人々や、地域の暮らしから切り離されない、そんな生活を支えていこうと、改めて思うのでした。