私は食べることが大好きです。
気を抜けば体重が気にかかってしまうくらい、ついつい食べて過ぎてしまうほど。
子どものころは母や祖母に「浩二は本当に美味しそうに食べるねぇ」と褒められていました。
自我が目覚めて恥じらいが出たころには、自分の食べる姿が気になってしまい、人前で食べるのが苦手になってしまいましたが。それももう、恥じらいも薄れるこの歳になれば怖いものなし、“美味しそうに食べる浩二”は復活しています。
小学校低学年になるまでは食が細く、体調を崩しやすい、面倒をかける子どもでした。母や祖母は、そんな私の食事を励ますために褒めていたのかもと思っていましたが、やはり自分もこの歳になると“美味しそうに食べる”姿を愛でる気持ちが分かってきました。といっても自分の子はいませんので、きみさんちで皆さんの食べる姿を楽しませていただいています。
シチューの素になじみの薄い年代のKさんは、シチューを作ると「これは美味しいね~、素人じゃこの味は出せないねっ!!」と喜んで下さいます。
前の晩から水に浸して作った煮豆を一口食べたNさんは「これ・・・誰が作ったの?出来合いじゃあないね。え?あんた?なかなかやるじゃない」と仰いました。新人のころでしたので、ちょっとこわもてと感じていたNさんに認められた気がして、とても嬉しかった覚えがあります。
Eさんは一緒に天丼を食べたとき、天ぷらと天つゆのしみたご飯を食べたあと、わずかに残った白飯を差し出しながら「あたしももう歳だから~」と苦笑いをされていました。
Yさんはパンが大好きで、紅茶にパンを浸して食べるときに、小指がぴんと立っていました。薄手の真白なブラウスで、とてもノーブルなお姿でした。
男性のKさんはさすが自分も料理上手だけあって“味の分かる男”でした。好物のそばが上手く茹で上がると、ニコニコしながら手繰っていました。
食事介助の必要なTさんは、上手く仕上がったオムレツや、ナポリタンを召し上がったときには目を見開いて、眉がくいっとあがっていました。言葉が殆ど発せられない状態でしたが、その食べる姿になによりも気持ちが伝わってきました。
誤嚥を心配しながらの一口もありました。はかない命がたえぬよう祈りをこめた一口もありました。いつも笑顔で気楽な食事だけではありませんでした。
ですが、やはり思い返すのは、嬉しそうな、美味しそうなお顔ばかりです。
一つ一つの食事の風景、全てがかけがえの無い記憶です。
私自身が美味しそうに食べる姿を見せてきた分だけ、美味しそうな姿を見る権利をもらったのではないかなと、思っています。