言葉は単なる記号ではなく、不思議な力=言霊が宿るといわれています。結婚式で「切れる」、葬式で「重なる」、受験生に「落ちる」・・・言霊の力が本当にあるかどうかは神のみぞ知るですが、そうした言葉を不適切に使うと、運勢のような、運気のようなものが逃げていく気がします。私は迷信深いのでしょうか(苦笑)。
その言霊のせいでしょうか?まったく同じ意味でも、ちょっとした言葉の使い方しだいでその言葉がもたらす感情がまったく違ってくる場合があります。
今回の震災において、避難所での高齢者の状況を伝える報道で「生活不活発病」という言葉が頻繁に使われました。これは生活が不活発になることで、さまざまな心身の機能が低下し引き起こされる症状を指しています。
たとえば歩く能力をお持ちなのに歩かずにいると、足腰の筋力など歩く能力自体が失われていくことがあげられます。(実は歩く能力だけではなく、心や循環器など全身に深く影響してしまうのですが・・・)
ご存知かもしれませんが、専門用語としてはこの生活不活発病に対し「廃用症候群」という言葉が使われています。これは英語ではdisuse syndromeでdisuseは「不使用」という意味です。しかし、それを「廃」という言葉にしてしまうと廃墟、廃棄、廃れるなど、とても印象の悪い単語が連想されてしまいます。
また、辞書には「廃」は「使えなくなる」「だめになる」「やめにする」という意味とありますから、それを体の一部分に対してでも人間に使うのは、特にその言葉を言われてしまう側にとっては、とても納得のいかない言葉でしょう。そこで生活不活発病という言葉が使われているようです。
廃という言葉にはそうしたネガティブなイメージ、言霊がついています。だからもちろん、廃用症候群を生活不活発病と言い換えることについて何ら異存はありません。言霊は脇においても、たとえ無味乾燥な学術用語だとしても、それを言われる側が気分を害するなら使うべきではないと思います。
しかし、一方でその「廃用症候群」の言葉のどぎつさとショックを、特に私たちのような職業は心に刻み続けるべきだろうと思います。廃用になるのではなく廃用させてしまう。廃れて用いなくなるのではなくて、用のないものとして廃れさせてしまう。手が動かない、歩けない状態にさせておいて「生活が不活発だったから」では痛みが足りない。
それは私たちが「廃用させてしまったから」。その言葉の重みはそれこそ言霊として意識し続けねばいけないと思います。
話は変わって、廃用症候群という言葉で思い出されるものに、この「廃用」をタイトルに冠した久坂部羊氏の「廃用身」という小説があります。タイトルに負けず劣らずショッキングな内容で、特に介護を考える上でかなり悩ましい作品です。もし興味をもたれたらご一読ください。
ところで、私の苗字は「志寒」。「志が寒い」と書くのですが・・・言霊的にはどうなのでしょうね?(笑)
最後に言霊の力を信じて。
「被災地がいっときでも早く復興し、被災された方が心からの笑顔で暮らし続けることができますように」