凄まじい春の嵐を乗り越えて、今年も武蔵関の桜が満開になりました。
「花は桜木、人は武士」といわれますが、桜は最期のつぼみが開くまでどの花も散らないともいわれます。潔く散るさまよりもそのしぶとさに憧れる今日この頃です。
この桜の語源を調べてみますと、コノハナノサクヤという女神からくるという説、“サ”は神様を表しその神の宿る“座(クラ)”であるとする説、“咲く”という言葉を語源とする説、そのほか諸説あるそうです。あでやかな桜の姿を見ているとどの説もなるほどと頷けますね。
私は桜に限らず、それがどうしてそのように呼ばれるのか、とても興味があります。名というのは、単なる言葉ではなく、そのモノの在り様や、置かれた関係性も指し示すと感じるからです。
たとえば色でも、真っ黒、真っ白、真っ赤、真っ青とは呼ぶのに、なぜ真っ黄、真っ緑とは呼ばないのか、そこから何か日本人の色の感性が感じられるように思います。
たとえば魚でも、フクラギ。大好きです。私の郷里に近い人ならこの名に郷愁を感じられるかもしれません。なぜこうして“ブリ”が大きさや地方によって呼び名が変わるのか、複雑で豊かな関係性があるのでしょうね。
さて、よく認知症にかかわる話題で名前のど忘れが出てきます。
「ほら、あのテレビに出ている俳優さんで・・・誰だっけ?」
「あの人、昨日会った、背の高い、ほら・・・忘れた・・・」
『・・・私も認知症かしら・・・』
でも、大ファンでもない俳優が誰とか、昨日初めて会った人が誰とか名前が出てこなくても問題はありません。これがたとえば「毎朝顔を会わせているあなたの名前は誰だっけ?」とか「昨日会った人?昨日誰にも会ってないわよ?」とならない限りそれほど心配はないでしょう。
本来、無味乾燥な名前というのは覚えづらいものなのでしょう。なにせ、私はまだ、きみさんちに来て入居者さんに名前を呼ばれた記憶がありません。まぁ必要があればその都度「大きいの」「眼鏡」「あの」「ちょっと」「そっちの」と色々に呼ばれていますが、名より実、呼ばれないより呼ばれる関係が大事だねと思っております。「先生」「おじさん」「チーフ」「料理人」「おまわりさん」・・・呼び名の多さは関係性の多さ、その入居者さんの心に色んなシチュエーションの色んな登場人物として自分が居るのだなと、むしろ嬉しくもなります。どうぞお好きにお呼びになって・・・。
その色々な自分の呼び名の中で忘れられない一つがあります。
まだ私がきみさんちに来てそれほど間もないころ、Yさんはきみさんちの前で歩行練習をよくなさっていました。そこに出勤してきた私が近づいていきました。
ご存知かもしれませんが、認知症の方は“新しい出来事、物、人”を記憶するのが苦手です。Yさんもご多分に漏れず。そのYさんが知り合って間もない私を記憶されているのか?・・・果たして私を遠方から見つけ「ああ、あの人ね」と仰いました。
その時点で私は何の関わりも意味も持たぬ他人から、馴染みの「あの人」へと名づけられたのです。記憶に残らない大勢の中の一人ではなく「あの人」へ。私の今までの人生で誇らしい呼び名の一つです。まさしくYさんは、その後きみさんちで働いていく私のゴッドマザー(名付け親)になったのです。
さて、4月は出会いのシーズンでもあります。出会ったクラスメートからの呼び名が、○○さん○○くんから、呼び捨てやあだ名へ変わっていった瞬間。こそばゆいものがありましたね。先輩や上司、意中の人に自分の名が呼ばれる瞬間、どれだけのルーキーが心穏やかならぬ緊張を感じているでしょうか?
そういや、親兄弟以外に“浩二(さん)”などとずいぶん長いこと呼ばれてないなぁと、心の春は名のみの寒さです。